疲れないために

人はどんな時に疲れるのか?

目眩く過剰な刺激に晒されることに耐えられなくなった時に。

人それぞれ五感に受ける刺激の許容量というのがあるらしい。それを超えた時、あるいは心が傷つくことに耐えられない時。

そんな時には五感を遮断する。

最後に残るのはどうやら視覚。

これはラカンのいう鏡像段階と関係があるようだ。

 

 

 

身の置き所

社会は個の尊重や幸せを作る仕組みにはできていない。だからこそ情報やお金が流通する。その一つのツールとして言葉もある。

ゆえに長く社会の中にいると、それらに疲弊する。それらを理解した上で、社会とどのように付き合っていくか。

情報やお金は社会の中で流通している。決して個人の自由にはならない。

その上で敢えて社会の中にどっぷり浸かって生きるか、接点を持ちながら外に身を置くか。その選択の自由は手にしている。

選択するには2つ以上のことの認識が必要。

モノマネや受け売りに選択はない。

身の置き所が決まれば行動も自ずと決まる。


自立と孤立

誰にも頼らず自分でやる。

そんな人は自立していると思われがち。

しかし、その中には孤立しているがゆえに、誰にも頼らず自分でする人がいる。

それらの人たちは人当たりもよく、誰とも仲良くできる。それゆえ孤立していることに気付かれずにいられるのだ。

多くの人の中にいることでより孤立感を強くしていることに周りの人は気付かない。

自立でも孤独でもなく、孤立している。

そんな人たちがいる。

 

決断するとき

人は決断すれば必ず行動する。

決断したのに行動しない時、そこでは何が起こっているのか。

思考している。

そう、あれこれ考えているのだ。

それもマイナスのことを。

人は考えている時には動かない。

決断した方向には動かない。

それとは関係のない動きをして紛らせているだけ。

決断したのになぜ動こうとはしないのか。

それは決断の先のイメージがまだ明確に描けてないから。

すべてのイメージが描けなくてもある一つのことが明確にイメージできれば動ける。

これこそが一番大切。

これが見えれば必ず行動する。

幻想世界

現実だと思って生きている世界は、実は脳が描き出している幻想。

だとしたら、自らの過去も現在も未来もバーチャルの世界。ゲームの世界と変わらないではないか。

ならば、今この瞬間から自分の好きな世界を描ける。自由自在に。

過去も簡単に消せる。自分が捨てればそれでいい。

現実逃避なんてない。だってすべては脳が描き出している幻想の世界なのだから。


般若心経の世界がぐっと身近に感じる。

色即是空空即是色

ナルシシズムの世界から抜け出す

人の目や評価が気になって動けなくなった時。そこから脱出する方法はただ一言。

「それが私だ」と叫ぶこと。

他者はそれぞれ無責任なことを言う。

つまり、無責任に勝手に私の自己像を創り上げて映すもの。

だからそれらに、ただただ「それも私だ」「これも私だ」と叫べばいい。

所詮、他者の勝手な無責任な都合のいい思い込みに過ぎないのだから。

『それらはあなたが勝手に創り上げた私の幻想だ』

それだけのこと。